アロヨ大統領に声は届くのか?
マニラでのバス乗っ取り事件が解決した。
しかし、犯人はバスに乗っていた園児たちの園長であるという。
しかも、その要求が園児たちの大学までの費用を奨学金で行なってほしいというものである。
犯人の園長個人の欲求を満たすというのではなく、この貧困からの脱出を願うものであったということは、われわれ日本人も考えなくてはならない。
莫大なODAをフィリッピンに援助しているが、それはインフラなどのハードにその多くが充てられる。
現行のODAを擁護する人間は必ずこのように言う。
「途上国の経済が発展すれば、必然的に貧困も改善される。ドナーとしては、相手国の経済発展のサポートをするのであり、社会問題までは内政干渉になるのでできない」と。
O.K.それは、正しいだろう。
ただし、相手国の政府が健全であるという前提ならばである。
土地開放もしていない、いやできない社会であるフィリッピンで、経済発展のモデルがどこまで通用するのか、長年の経験でわからないのだろうか。
アマルティア・センならば、こう言うだろう。
「彼らには選択肢がないのです。ファンクショニングを実現するケイパビリティを発揮できないのです」と。
ヨハン・ガルトゥングならば、こう言うだろう。
「搾取の構図を見過ごし、その状況を悪化させ、また搾取側に援助をすることは、構造的暴力以外の何者でもありません」と。
ODAもそろそろハードからソフトを対象とする時代に来ている。
すなわち、人的投資に向ける時代なのである。それは、人材を育成することであり、健全な社会を形成することなのである。
残念ながら、日本ではこの園長が望む結果をサポートすることはないだろう。なぜなら、そこまで、社会が成熟していないからだ。
このように書くと、文章もまともに読めない人はこう批判するだろう。
「あなたは、園長の行動を擁護するのか?」と。
文章を読めなければこの批判だろう。この批判についての反論は簡単だ。
ただ、こう言えばよい。
「だれもアウシュビッツを擁護するものはいないだろう。むしろその原因を明らかにし、それを取り除くことが一番の処方箋である」と。
でも、メディアはバカばかりだから、無理だろうなあ。
しかし、犯人はバスに乗っていた園児たちの園長であるという。
しかも、その要求が園児たちの大学までの費用を奨学金で行なってほしいというものである。
犯人の園長個人の欲求を満たすというのではなく、この貧困からの脱出を願うものであったということは、われわれ日本人も考えなくてはならない。
莫大なODAをフィリッピンに援助しているが、それはインフラなどのハードにその多くが充てられる。
現行のODAを擁護する人間は必ずこのように言う。
「途上国の経済が発展すれば、必然的に貧困も改善される。ドナーとしては、相手国の経済発展のサポートをするのであり、社会問題までは内政干渉になるのでできない」と。
O.K.それは、正しいだろう。
ただし、相手国の政府が健全であるという前提ならばである。
土地開放もしていない、いやできない社会であるフィリッピンで、経済発展のモデルがどこまで通用するのか、長年の経験でわからないのだろうか。
アマルティア・センならば、こう言うだろう。
「彼らには選択肢がないのです。ファンクショニングを実現するケイパビリティを発揮できないのです」と。
ヨハン・ガルトゥングならば、こう言うだろう。
「搾取の構図を見過ごし、その状況を悪化させ、また搾取側に援助をすることは、構造的暴力以外の何者でもありません」と。
ODAもそろそろハードからソフトを対象とする時代に来ている。
すなわち、人的投資に向ける時代なのである。それは、人材を育成することであり、健全な社会を形成することなのである。
残念ながら、日本ではこの園長が望む結果をサポートすることはないだろう。なぜなら、そこまで、社会が成熟していないからだ。
このように書くと、文章もまともに読めない人はこう批判するだろう。
「あなたは、園長の行動を擁護するのか?」と。
文章を読めなければこの批判だろう。この批判についての反論は簡単だ。
ただ、こう言えばよい。
「だれもアウシュビッツを擁護するものはいないだろう。むしろその原因を明らかにし、それを取り除くことが一番の処方箋である」と。
でも、メディアはバカばかりだから、無理だろうなあ。
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テーマ : 政治・経済・時事問題
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